懺悔

伯母の亡骸は、今でも私のトラウマだ。
血の通わなくなった肌は真っ青で、触れると冷たく、無表情な顔には心が宿っていないように見えた。
私の知ってる伯母は、完全にこの世から消えてしまった。死とは惨い。

伯母はいつも死にたがっていて、とても可哀想な人だった。
何故、みんな「死にたい」と言う伯母を責めるのだろう。

好きなだけ言わせてあげたらいいのに。
死なせてあげたらいいのに。
苦しくて仕方なかったのだと思う。

「おばちゃんは、あんなに死にたがってるのに、なんで死んじゃだめなの?」

そんな質問を投げかけて、伯母の夫である伯父に、こっ酷く叱られたことがある。

三十年以上前、伯母は「自律神経失調症」という事で薬を処方されていた。
当時は、精神の病は今ほど簡単に口にはできるものでは無く、周りへの理解を求めるのも難しかった頃だ。
おそらく、伯母は「うつ病」だったのだと思う。

私の育ったところは、とても小さな島で、変な噂が広がるのに半日もいらない。
伯母があちこちで「死にたい」というのを、身内はとても嫌がっていた。

伯母は身内の中で一番の美人だった。
うっすら口紅を引いただけで、端整な顔立ちはより一層美しくなり、子ども心に憧れた。

伯母は私の父の姉だ。

私の両親は、私が八歳の時に、父のひどい暴力が原因で離婚した。
私は母に引き取られ、父は間もなくして蒸発した。
父は島を出てからは、時々伯母へ電話をしていたようなので、どこかで生きているということは知っていた。

私は父に対して、あまり気持ちを持っていなかった。島から出て行ってくれたことに清々していたくらいだ。

その事に罪悪感を感じたのだろうか。両親の離婚後も、伯母は私のことを可愛いがってくれた。

高学年になる頃には、伯母の話し相手にもなった。
普段の生活で「死にたい」と漏らすと、伯父からひどく叱られ、娘たちからも嫌がられると、もう話を聞いてくれるのは私しかいないのだと言っていた。

こんな子どもにも縋るくらいに、伯母の精神は限界だったのだと思う。
そして、急激に性格も変わっていった。

起伏の浮き沈みは激しく
なり、顔つきは険しくなり、笑顔が減っていった。

これまでは私の母に対して、父のことを詫び、優しくしてくれていたのだが、急に母に嫌味を言うようになってきたのだ。

母への誹謗中傷は、徐々に激化していき、母が体調を崩してしまうくらいだった。

母と伯母が不仲になってしまったため、伯母に会う機会は減っていった。
それでも、私は伯母のことは嫌いになれず、時々会いに行くと、涙を流して喜んでくれた。

相変わらず、「死にたい」と言い続けていて、私が中学に上がった頃には、死にたい理由も話してくれるようになった。

結局は私の父が原因だったのだが。
事業の失敗、暴力、離婚、蒸発。祖父が一代で築き上げた財産は全てなくなり、残していったのは借金だけ。

親戚の大人はみんな大変だっただろう。
伯母がおかしくなったのも、当然だと思えた。

中学二年生の八月十二日。伯母が買い物のついでだと言って家に来た。
薄い桃色のブラウスを着て、綺麗に化粧をしていた。
うちの田舎は殆どが農家で、地味な格好が多いため、その日の伯母の格好は珍しかった。

伯母が、庭で少し話をしようと言ってきた。
目の前には壮大な畑があり、その向こうには綺麗な海が見える。
田舎ならではの景色だ。


イラスト あん


「おばちゃん、今まで死にたい死にたいばっかり言ってごめんね。どう思ってた?」
と、伯母は聞いてきた。

「小学生の頃は、なんでおばちゃんこんなに苦しんでるのに、死んじゃダメなの。楽になるなら、死なせてあげたらいいのに。みんななんで怒るんだろうと思ってたよ。
でも、今はおばちゃんが生きてて良かった。」
と、私は応えた。

すると伯母は、
「ありがとうね。」
そう言って、微笑んでくれ、私は伯母を救うことができたと思った。

しかし、それが伯母との最期の会話となった。

八月十四日の朝、伯母は遺体で見つかった。
入水自殺で、砂浜に打ち上げられていたのだ。

遺書は無かったものの、靴は並べられていて、その横にはウィスキーの瓶が置いてあったらしい。

私のせいだ。「死にたい」と言う気持ちに、私が少しでも共感するようなことを言ったからだ。
もし私があの時、死ぬことは絶対ダメだと言えば、伯母は自殺なんてしなかったのかもしれない。
結局、私は伯母を救えなかった。

あの日からー。
私はずっと後悔して生きている。


作・
皐映月 紅歌
(さえつき あか)